自閉症の男の子を抱えるシングルファーザーの奮闘記。学校とのやり取りや家族の話、息子の様子などをつづる。
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最後の言葉は誰に?
[ ノノママ ] / 2005/04/30 16:31:07

ノノママが帰った後、私はガラにも無く少し物思いに耽った。私とノノママの関係は何なのだろうか?普通は、離婚した間柄にどんな繋がりがあるのだろうか?

 私の友人は、離婚した後数年して幼い子供を残して元奥さんが亡くなっている事を知って、元奥さんの実家に行ったが、線香も上げさせてもらえなかった。子供にも合わせてもらえなかった。彼が奥さんの死を知ったのは、裁判所からの親権調停の申したてだったのだ。別れた妻の死の連絡も無く、線香すら上げられない。これが離婚の現実なのか?

私は、今回の一連の事態で、遠い昔の出来事を思い出した。それは、もう20年程前のことだ。
〜〜〜〜
 私は、その頃バンドをしていた。その頃ボーカルをしていたJちゃんは、バンドのメンバーの一人といつしか付き合っていた。私は、彼と親友だったので、付き合い始めたこともいち早く知っていたが、その一方で彼が結婚を全く考えていないことも知っていた。Jちゃんは、早く結婚したがっていた。暫くすると、彼がJちゃんの家に行ってお父さんと飲み明かしたりしていることをJちゃんは嬉しそうに話してくれた。私は、てっきり彼が結婚することを考えているのだと誤解していた。しかし、私が思ったとおり彼は、結婚なんか考えてもいなかった。雲行きがあやしくなると、彼はJちゃんとさっさと別れてしまった。
 あの日、Jちゃんから電話がきた。
「わたし、死ぬの。」私は驚いた。「もう、生きていられない。」
「今、どこにいるの?」私は、あせって聞いたが。
「さようなら」といって電話が切れた。私は、Jちゃんがどこに居るか、ピンと来た。
 その当時、私たちのバンドは、専用の練習スタジオを持っていた。そのスタジオに居るに違いないと思った。私は、車を飛ばしてスタジオに向かった。
 スタジオに入ると案の定Jちゃんが居た。手首の数箇所から血を流していたが、深い傷ではなかった。
「死ねないの」彼女は、力なく言った。私は、なんだか怒りが込み上げてきて、「死にたいんなら、一人で勝手に死ねばいい!!彼とのことが辛いのはわかるが、そんなことで死んでしまうなら、さっさと死んでしまえ!」私も若かった。今ならそんなことは言わないだろうが。
 スタジオの救急箱の包帯で傷口を応急手当しながら、「こんなことで死ぬんじゃない!」と自分の中に起こる怒りを口にしていた。彼女は、ずっと泣いていたが、もう朝が近くなった頃、やっと泣き止んで「ごめんなさい。ありがとう」と言った。「あたし、これからどうやって生きていけばいいかわからないの」と。私は、「またすぐに彼なんか出来るよ!Jは、かわいいんだから」と慰めた。彼女は唐突に自分のブラウスのボタンを外し始めた。私は、あわてて彼女の手を静止した。「おねがい!」と彼女は、大粒の涙をこぼした。私は、「そんなことしちゃだめだ!後で辛くなるだけだ!」と言って朝まで肩を抱いていてあげた。
〜〜〜〜
 もう忘れかけるほど遠い昔の出来事だ。

水曜日のことだ。ノノママから電話だ。私が仕事中は、大概メールをよこすのだが、電話をかけてくるのは急用だろうと思った。直ぐに電話に出ると。
「あとのことは、、よろしく。」とだけ言って電話が切れた。直ぐにかけなおしたが、通じない。
ノノママは、自傷行為など何回かあったし、「死ぬ」の言葉も何度と無く聞いた。でも、今回は胸騒ぎがして、会社を抜け出してノノママと彼氏が暮らすアパートに駆けつけた。
 玄関のチャイムを鳴らしても出てこない。何度か鳴らすと、やっと鍵が開いた。手に刃物をもって腕全体と腹から血が流れていた。首筋にも、赤いあとがうっすら付いていた。
「死ねないの!切っても死なないの!」泣きながら言った。
「今ね、ネクタイで首をつってたの。」つってたのじゃない!!
幸い傷は深くなかった。「どうしたの?!」「パパあ〜あん〜あ〜あ〜」泣くだけだ。
暫く、支えるように抱いて少しおちつくのを待った。どうやら彼は不在のようだった。
暫く泣いた後、少し落ち着てきたので、どうしたのか聞いた。
アルコール依存症の彼氏が、酒をやめなくてトラブルになったようだ。そんなことを言われても、私としてはどうしようもない。暫くなだめて、病院へ連れて行った。
掛かりつけの病院には、ちょうど担当の精神科の先生が居てくださったので、任せて一旦会社に戻った。点滴をするので小一時間掛かると言われたからだ。
 ノノママの友人のMちゃんから電話が掛かってきた。「ノノママから連絡あった?!わたしに変なメールが来ててなんかおかしいのよ!!今気づいて!どうしたらいい?!」Mちゃんは、かなりあせっていた。どんなメールを送ったのかはわからないが、かなり緊急を要する内容なのだろう。「アパートに行って来たから大丈夫だよ」「死のうとしてなかった?」「してた。」あっさり答えると、「大丈夫?!」「うん、病院に連れて行ったから大丈夫。もう落ち着いたし」「もー!なんなんだろうー・・・・」心配声が一転して怒りを帯びてきた。「また、連絡するよ」私も怒られそうな勢いだったので電話を早々に切った。
 病院に迎えに行くとノノママはもうすっかり落ち着いていたが、担当の先生から、”暫く家に非難させた方がいい”と言われて、今夜は、家(私の所)に泊まって行くように言った。暫く様子を見てくださいといわれた。

家に戻ってからは、ノノママは何事も無かったように落ち着いていた。いつものように子供達と遊んで、あとは寝室で横になった。私は、まだ仕事が残っていたので会社に戻った。
 夜11時近くに戻ると、ノノがまだベッドの中で歌っていた。ママが居て嬉しいのだろう。ママも落ち着いてノノの歌を聞きながら、寝たふりをしていた。
 病院でつけてもらったガーゼを剥がすとノノママの左腕と、腹に沢山の傷があった。首にもうっすらと痕があった。家には、大きな傷あてパッドがずっと前から買ってあった。ノノママが前にも自傷行為をしたから、私が買っておいたのだ。「あーぴったりサイズ!」なんて喜ぶノノママを見てなんかちょっとなさけなくてせつなかった。
 ノノママは、殆んどごろごろしていたが、金曜日になって、彼氏の兄弟と連絡をとって「話し合いをしてくる」と言って彼の元に戻っていった。「もう少し、居たら」と言ったが、言い出したら聞かないのがノノママだ!
 今朝詳しい話を聞いた。彼のお兄さんが来てくれていろいろ話したそうだ。アルコールを止められないのはいつものことで、入院して禁酒しては、出てきてまた呑むの繰り返しのようだった。ノノママは、気が抜けたようだったが、おちついている様なのでとりあえずは、安心した。
「もう、追い出してやろう!!」とノノママは言っていた。追い出した後あなたは、どうするつもりなの??


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逃避法
[ ノノパパ ] / 2005/04/26 12:06:41

 私の周りの人たちに言わせると、私は、『怒らない』、『動じない』、『冷静』、『我慢強い』人によっては『冷たい人』と言う人もいる。本人は、いたって普通だと思っているし、あまりそのような評価を気にしていない。別に不感症でもないし熱血漢でもないと自分では思っている。
 私だって、泣きたい時はあるし、怒りたい時もある。ただいつの日からか、段々と自分の感情をある程度コントロールできるようになった気がする。
 ノノ兄が生まれたばかりの頃、ちゃんと母乳が出るのにノノママは、ミルクを与えその大半がノノパパの仕事となった頃、随分と理不尽な怒りを胸に秘めていた。ノノママが買い物で浪費したり、夜飲み歩いて朝帰りすることが多い時も、悲しんだり怒ったりしていた。何度か本気で怒り散らしてやろうかとも思った。
その頃からだろうか、私は、自分がある逃避法を使っていることに気づいたのは。

 これから、その逃避法について書くが、みんなに効果があるとは、とても思えないし、そもそも馬鹿げている話なので、あまり真剣に読んでもしょうがない。冗談の類いとして読み流してほしい。


 私は、小学生の頃SFにハマった。特に宇宙物は大好きで、宇宙をいろいろと調べた。アポロの衝撃がまだ冷めやらぬ時期だし、スタートレックなどのアメリカのSFドラマにも大いに影響を受けていたのだろう。今の言葉で言うと「宇宙オタク」だろう。


 「木を見て森を見ず」とよく言うが、本来の意味はさておいて、現在は大局を見極めて考察せよとの使われ方をしている。これは、日常生活でもとても大切なことだと思う。目の前の障害や1つ1つの物事に感情的になり一喜一憂することは、大局的に考えれば、小さなことかもしれない。しかし実際その当事者にはそんな余裕が生まれないのは言うまでもないが。
 私の解釈では、この言葉はかなり上手く出来ていると思う。「森」が大局だからだ。「森」の向こうに何があるのだろうか?もっと遠くには、森で無いものがあるのだろうか?
 大局を考えるのは「森」程度にしておけ、と私は解釈する。それ以上広い視野で物事を考えると何も出来なくなってしまうからだ。人は、そこまで大きく物をとらえて考える力は無い。なぜなら想定できない偶然が沢山起こるからだ。全てことを想定したら、かえって前に進めなくなってしまう。例えば「もし障害のある子供が生まれたら」と考えたら。どうするのだろう。

 私の逃避法は、「森」の外まで見てしまうことだ。「森」の外を見ると、私が暮らす森が可愛いものに感じる。そして今自分が遭遇している困難が、一時的な感情の高まりか、今考えても仕方の無いことのどちらかに思えてくる。どうやって「森」の外を見る?私は空を飛べる。


 自分を見失いそうになった時、目をつぶる。そして目をつぶった自分を真上から見下ろしていることを想像する。悲しみにくれた、または怒りに振るえた自分がそこに居る。少しづつ高く飛ぶ。段々自分が小さくなっていく。建物を突き抜けて屋根が見え始める。もっと高く。
 町並みが見えてくる。沢山の家やビルに明かりがともり、車が走りいろんな人がこの瞬間いろんな営みをしている。もっと高く。
 町並みが小さくなり、町の地形が小さくなって、海が見える。日本列島が見える。雲の中を突き抜けて。もっと高く。
 海が広がり、台地が丸みを帯びて、やがてそれが丸いことがわかる。地球の外殻に真っ黒な宇宙がある。もっと高く。
 地球が段々小さくなって豆粒のようになる。もっと高く。地球なんか見えなくなる。それでも宇宙は、無限に広い。その中のちっぽけな地球の上のちっぽけな島の上のちっぽけな町の中に大勢の営みがあり、みんな精一杯生きている。
 宇宙の時間からすれば、私が生きている時間は、ほんの一瞬であり、どんなに頑張ったって宇宙には何の影響も与えないし、なんの記憶も残らない。

 自分の身体に戻って目を開ける。大体は、感情のバランスの問題か、今はどうしようもないことだ。論理的に考えよう。スポックのように
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気球にのってどこまでも
[ ノノくん ] / 2005/04/19 18:07:40

 今朝もいつもの朝と同じようにノノを学校まで送っていった。今年から歩いてなんて思ったりもしたのだか、やっぱり車で学校へ送って行っている。(これは単にノノパパの都合なのだが
 ノノは、学校に着くまで、車の中で大概なにか歌っていることが多い。家を出る直前まで見ているNHKの子供番組関連の歌を歌っていることも多いが、学校で習った歌なども歌っていたるする。

 ノノは私が一緒に歌い出すと黙ってしまうことが多い。それで私が歌うのをやめると続きから歌い始めるといった具合だ。
 それでも、最近は私が歌い始めても、やめないで一緒に歌ってくれる場面が増えた。
 一緒に歌う時は、私は、ハモってやろうといつも試みる。大体はノノの音程がしっかりしていないので上手くいかないか、ノノがつられてキーを変えてしまう。
 それでも、たまに、少しの間でも上手くハモれる時がある。
 そんな時は、私は、とても上機嫌になるのである。

 今朝の選曲は、「気球にのってどこまでも」だ。なぜその曲なのか分らないが、私が小学校の時、合唱コンクールで練習したことがある曲だからよく覚えている。
 いつものようにノノが歌いだしたので、私も一緒に歌いだした。今朝は、私が歌い出すと黙ってしまった。私が歌うのをやめると、また歌い出す。いつものパターンだ。
 私は、意地悪して、途中からハモりの部分の旋律を歌った。2回目に歌った時だろうか?
 『〜気球にのって どこまでいこう〜』の部分を下の旋律で歌い始めたところで、ノノがキチンとキーをあわせて旋律を歌い始めた。1番の終わりまで、ちゃんと合唱できた。
 胸に熱いものが走った。

 こんな小さなことで、こんなに感動できるのは、この子のおかげだろう。

 おまえのパパで、よかった。 ノノ。

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ノノジジの家事
[ ジジとババ ] / 2005/04/18 20:59:23
 
 ノノジジは、神経質で無口な人だ。ノノババが生きていた頃は、家事の一切をノノババがやってノノジジは、どちらかとゆうと「お茶!」「新聞!」「風呂!」ってタイプの人だった。
 小さい頃私は、そんな父がいやだった。母は、朝から晩まで働いて家事一切をして私を育ててくれた。父は、サラリーマンだったが、土日は休みでは無く、盆も正月も関係なし、おまけに交代制の勤務で不規則な生活だった。だから、私が小さいとき家族旅行などした覚えも無いし、せいぜい日帰りで海に行った記憶しかない。だから、私は、いつも鍵っ子で、母がとても大変だなぁと思っていた。母は、なぜあんな父の言うことを笑顔でハイハイ聞いているんだろうと不思議にさえ思えた。

 父は、母より5歳年下で、職場結婚だったようだ。どんな恋愛があったのかは、わからないが、息子の私が言うのもなんだが、若い時の写真を見ると二人ともそれなりに美男美女って感じだ。二人の間には、私のわからない愛情や絆があったのだろうと思う。
 散々苦労させてしまった母は、休むまもなく孫(ノノ兄)の面倒を見て、やっと少し手が掛からなくなった頃に亡くなってしまった。これから少しは父と旅行にでも出そうと思っていたのに。

 母が亡くなってから、家事一切は、ノノママの仕事となった。父は、ノノママの食事に文句を言うことは無かったが、一緒に生活している以上、子供のことや生活の細かいところで口が出たりすることもあった。
 ノノママにとっては、そうしたこともかなりストレスだったことだろう。
 
 ノノママが、病床に臥すようになり、段々家事が出来なくなって行くと、その分私が家事をしなければならなくなった。
 私が夜遅く仕事から帰ってくると、流しには1日分の食器が山積みであった。洗濯物も山積みになり、夜中に洗濯をした。そんな状況でもノノジジは、家事一切に全く手出ししなかった。
私は、父は、そういう人だと思っていたので、それが当たり前で何の不自然さも感じなかったが、ただただ母は、よくケンカもせずに頑張ってきたなぁと感心した。
 ノノママが、入院し家事の全てが私の仕事になっても父は、相変わらすだった。それでも、ノノを学校に迎えに行ってくれたし、私が居ない間は、みていてくれていた。
ノノママと離婚することになった時も、うちの中の生活は、何ら変りはなかった、1年もノノママは家に居なかったしノノ兄には離婚したことを未だに説明していない。だから、生活はなんら変ることがなかった。
 そんなある日のことだ、我が家に異変が起こったのは。
 私は、いつも一旦会社から戻り、夕食を出してから会社に戻って仕事をする。ノノを寝かせる時間になると帰宅してノノを寝かせつる。それから食器洗いや、洗濯、時には掃除も夜したりする。朝は、何かと忙しくて結局夜になってしまうのだ。夜中にこっそり洗濯物を干しすのは、結構ほねがおれる。音を出さずにしわを伸ばすのはコツがいる。
 それでも、夜疲れて寝てしまうこともある。そんな時は朝バタバタと洗濯したりするのでつい洗濯機に洗濯物を残したまま出社して、夜にまた洗濯する羽目になったりする。
 
 そんな時でも、ノノジジは、「洗濯機に入ったままだぞ」などと言うだけで一切家事はしてくれなかった。

 ある朝私は、出社してから洗濯物を洗濯機に入れたままにしていたのを思い出した。でも、その日は忙しくで抜け出して干す訳にも行かず、帰ってから洗いなおそうと思っていた。
 そうして夕食を出しに家に戻ると、ん?夢か幻か?洗濯物が干してある。もしかして私が朝干したのを忘れていたのか?いや、そうではない。明らかに私の干し方と違っていた。
 ノノジジが干してくれたのだ。ノノジジは、顔を合わせてもそのことは何も言わずいつもの通りだ。私も「ありがとう」と言うのが照れくさくてそのままになってしまった。
 次の日の朝、ノノジジが、「洗濯機ってどうやって使うんだ?」と聞くので、照れくさいのもあって私もぶっきらぼうに「洗濯物入れて、洗剤入れて、スイッチ押すだけ!」と答えると「それでいいのか。」と。
「もう、時間が無いから行ってくるよ!」と言って家を出た。もしかして洗濯してくれるのだろうか?それよりも洗濯機の使い方を聞いてくれただけで、ほんとは嬉しかった。ノノババが生きていたらどんなに驚いたことだろう。ノノババが生きているうちに言ってあげてほしかったのに。そんな思いで胸が詰まった。
 帰ってくると、洗濯物が干してあった。神経質な父の性格を反映してカッチリきれいにほしてあった。ほんとは胸が熱くなったのだが、「どうも。」とぶっきらぼうに父に言うと、父は、何も言わずただうなずいた。
 それから、ノノジジは、ノノの入浴や、ちょっとした掃除もしてくれるようになった。
こうして、ノノジジのありがたい家事がはじまった。

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我が家に子供が生まれた日
[ ノノ兄 ] / 2005/04/12 18:08:04

 〜今回は、自閉症の話でもなければ、離婚の話でもない。
               我が家に彼が仲間入りした日のお話〜

 長男のノノ兄は、二人目に授かった子だった。
前にも書いたが、私達は結婚式を2度やった。5月に友人が開いてくれたパーティーと10月に正式な結婚式だ。入籍日は、実はそのどちらでもない。入籍は、7月1日。地元のミニ新幹線開業の日に合わせた。ノノママは「そうすれば、私達が数えなくてもニュースで何周年!ってやってくれるでしょ!」が理由だ。おかげで、2回の式の日と入籍日の年3回、結婚記念日のプレゼントをおねだりされる羽目になったのだが。

 初めに妊娠が判ったのは、9月だった。もう10月の結婚式目前だった。海外旅行に行くはずだった新婚旅行を急遽キャンセルした。流産するかもしれないと医者に言われたからだ。結局のところ10月の結婚式を待たずにその子は見えなくなってしまった。結婚式だって取りやめてもいいと思った矢先に。

 ノノ兄が授かってから、ノノママは、入退院を繰り返した。切迫流産の恐れがあったからだ。結局何ヶ月入院したのだろうか?数ヶ月は入院していた。その頃ノノママは仕事をしていたが、さすがに辞めざるをえなかった。

 ノノママのおなかは日に日に大きくなって、エコーのビデオを二人で見ながら「これ、きっと男の子だよ!ホレホレ!」。ノノママのおなかを強く蹴るわが子に今度は大丈夫。無事に生まれてくれ!と願った。

 ノノママは、楽しそうにいろんなものを買った。「これも必要よ!」「借金したって買うのよ!」必要なものは当然買うしかない。「車、セダンじゃ狭いわ。ベビーカーも積むのよ!7人乗りがいいなぁ!」新車も買って準備万端。

 ノノママは、「当然立ち会ってくれるよね」っていって、選択の余地を私に与えなかった。私が血を見るのが苦手なのを知っていてだ。

 その日のために、まだ大きかった携帯電話も買ってそばに置いた。電話が鳴ったのは、夕方近くだった。

 直ぐに早退して病院に向かった。ノノママは繰り返し押し寄せてくる痛みに耐えながら頑張っていた。数時間して分娩室に入る。ノノママに点滴の針が何本か刺さっている。もう直ぐです、って時にその針が抜けて、ノノパパの白衣に血が飛び散った。「エヘー!こわいでしょ〜!」ニマいま産もうとしているのになぜ私の恐怖におののく顔をみて喜ぶんだぁ?私は必死なのに〜

 なかなか出てこず吸引分娩となった。私も全身汗びっしょりとなった。

 その子の産声を聞いたとき、もう何も怖くなくなった。ほんとにうれしかった。

 ノノママは「してやったり!男の子!」とVサインを送った。女は凄いとおもった。

つづく
こめんと ( 12 ) | とらっくばっく ( 1 )


はじめまして
[ ノノパパ ] / 2005/04/09 15:45:08
〜はじめまして ノノ兄です〜
 ブログを始めてから2ヶ月近くになるのによーく考えるとまともにプロフィールを書いていない。そもそもブログがこんなに続けられるとは思っていなかったふしもありましたが、皆さんの暖かいご支援でここまで続けて来ることが出来ました。これからもよろしくのご挨拶を兼ねましてちょっと家族の紹介をしたいと思います。

ノノパパえっと、私です。1964年生まれ独身×1です。東北に住んでおります。趣味はいろいろありましたが、今は暇が無いです。今一番したいことは、12時間位寝ていたい!です。
ノノノノは、次男です。自閉症で、学区の小学校の特殊学級に通う4年生です。言葉による会話は出来ません。生活にも介助が必要です。
ノノ兄はじめまして ノノ兄です。長男です。ノノと同じ小学校の6年生です。
ノノジジノノの祖父(私の父)です。定年退職して、昼間は、ノノをみてくれています。

 以上の男系男子4人暮らしです。
 ちなみに我が家の女性陣は ノノママ:私の元妻です。昨年離婚しております。   ノノババ:ノノの祖母。(5年前に)急死致しました。

簡単ではございますが、紹介させて頂きました。これからもよろしく
こめんと ( 19 ) | とらっくばっく ( 0 )


今日から新学期
[ ノノくん ] / 2005/04/07 15:00:48

 今日はノノの学校の始業式だ。4年生になった。担任の先生が変らなかったので何の不安も無く学校に送り届けてきた。
 担任の先生は変らなかったが、お世話になった幾人かの先生が転出された。かわりに入ってくる先生方は、ノノを理解してくれるのか?ちょっと不安もある。
 ノノは、授業中もかまわず、他の教室に出没することがある。校内放浪の旅だ。小さい学校なのでみんなノノのことを知っているし、ノノが来ても全く気にしないようだ。4年生の通常学級には、ノノが座れる机と椅子が準備されている。1,2年の時は、いつもノノの机が通常クラスの端に設置されていた。ノノは、そこに座って通常学級と一緒に授業を聞くこともあった。もちろんちょっとだけしか辛抱できないのだが。3年になって、通常クラスの担任の先生が変られたこともあるのか、ノノの机は、教室の隅に片付けられ、必要な時だけ出すようになった。ちょっと複雑な思いだったが、これは、学習内容が一緒に出来るものが少なくなったからだとノノの担任の先生から説明があった。それでもノノは、同じ学年のお友達が、体育館や音楽室等に移動するたび様子を見に行って何をしているのか確かめるそうだ。
 明日は入学式がある。ノノは、とりあえず一緒に体育館に行くが、騒ぐので途中退場だ。例年のことだ。それでも騒ぎながら退場するので、新入生の保護者の方々には十分アピールされることになるのだが。来年担任の先生が変ったりしたらそんなところから相談しなければいけないと思ったら、ちょと気が重くなる。先のことを考えてもしょうがない。
 今朝は下駄箱が4年生の場所に変っているはずなので、昇降口の中まで入った。ノノは3年生のいつもの下駄箱に行こうとしたが、「今日からこっちだよ」って声をかけたら「こっち」といって素直に4年生の下駄箱の列に行った。「今日から4年生だよ」「よん ね んせい」と言って判ったかのか分らないがとりあえずスムーズだった。4年生は、1クラスしかないのでもういちいち下駄箱に名前が書いてない。ノノの下駄箱は、3年までは、クラス通しの出席番号のところにあったがとうやら今年は忘れられたらしい。ノノが入れるところはないようだ。どこ入れるか分らなかったので一番最後の空いてそうなところにとりあえず入れてきた。昔だったら職員室に直行して、ノノの下駄箱を主張してたかも知れないけど、今は、担任の先生に任せておけば大丈夫。それに、端の方でも一向に構わない。この子達は、ノノを苛めたり無視したり絶対にしないのはわかっているし。
 もう少ししたら学校の様子を見に行こうと思う。

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要悔悟
[ 自閉症 ] / 2005/04/04 14:08:43
自閉症が始まったのは、自閉症と言われた日ではない。自閉症は、先天的な障碍だ。親の苦悩は何も自閉症と言われた日に始まった訳ではない。そのこともあえて文章にしたい。私の罪は消えるわけでも癒える訳でもないが、もしかしたら、これを読んだ誰かを救えるかもしれないから。
私は自閉症のことを良く知らなかった。そのような障碍があることは知っていたが、その特性がどんなものなのか知らなかった。
ショッピングセンター等で騒いだり大きな声を出して走り回ったりしている子を見た時、あなたはどう思うだろうか?陳列された商品を片っ端から落としていく子供を見たらどお思うだろうか?それがわが子だったどうするだろうか?
まだ、小さいから、言って聞かせてもわからない。だから、怒る。怒っても止めない。そして大声が罵声になる。それでも止めない。手を上げる。それでも止めないのだ。どうすればいい?
 座っていられない。静かにしていられない。目を合わせない。悪いことでも止めない。騒ぐ。走り回る。パニックになる。寝ない。
ノノママは、いつも気が立っていた。思うに任せないノノと一緒に居る事だけでイラつく。罵声が飛び、手も飛ぶ。「なんでそうなの!」疲れ切っても夜寝ない。叩く、泣く、騒ぐ。私は、帰りが遅い。そんな生活をしていた。私も何度となく力でノノを制した。泣き喚いても制した。なんて頑固な子なんだ。
「生まなきゃ良かった」「この子さえ居なければ」ノノママは、時々そんなことも口にするようになった。
ノノママが、怒って叩いても私は、何も言えなかった。ある程度きつい躾が必要なのかも知れないと思っていたからだ。それでも常軌を逸っしてくるとしばしばノノを抱えてリビングで寝たりした。虐待なのでは?と思ったこともあった。もちろんノノが怪我をするほどひどいことはしていないと信じたい。私は、今振り返ってもノノママを責める事はできない。なぜなら私も共犯だからだ。ノノにとっては地獄の日々だったのかもしれない。
自閉症と判った後も現状を打開する方法は、見つからなかった。「なぜそうなんだ」とゆう疑問の答えが「障碍だから」とゆう以外に生活の多くは変らなかった。なぜなら自閉症をどう扱っていいのか判らなかったからだ。そんな頃児童相談所の紹介で、ある自閉症の支援団体にノノを連れて行った。先生は、「ここに来るべき子です」とおっしゃった。そこでの先生の対応は、今まで見たことの無い接し方だった。目を合わせず、ゆっくり優しく声をかけ、行動を制限せず観察するようだった。ノノママとノノは、そこへ通うことになった。ノノママの話から私が受けた印象は、ノノの教育よりも自閉症児のお母さんの教育とケアに重点が置かれていたようにも感じた。それは、ノノママにとっては辛い日々だっただろう。私もできる限り一緒に通ってノノのことや、その対処を学んだ。これが無ければ混迷はもっとずっと長く続いただろう。

私が言うのも痴がましいが私の失敗の様にならないでほしい。わが子がほかの子と違ったら、直ぐに専門家に相談してほしい。相談しても何も得られない場合もあるかもしれない。そんな時は、もっと広い視野にたって子供をよく観察してほしい。自閉症は、1000人に数人(最近の統計では6人とのデータもある)くらいいるのだ。決して少ない数ではない。
 そしてもう一つ。両親で障碍を理解し育てて行く事。これがとても重要だ。ややもすれば父親は目を背けがちだ!父親の会で飲んで話していても、良く判らないから(妻に)任せっきりだと言うお父さんは多いし、「障害のある子は、我が子と思えない」と言うお父さんすら居た。とんでもないことだ。母親一人で背負いきれる問題ではないし、背負わせてはいけないことだ。

ノノママの心の傷は、癒えることは無かったのだと思う。その後病床に臥しても「二人だけだったらよかったね。子供は要らなかったね」と呟く事が多かった。そんな時私はいつも「ノノを生んでくれて感謝してるよ」と答えた。

 ノノの療育手帳には、『要介護』の真っ赤なハンコが押してある。私には時々「要悔悟」に見える。

こめんと ( 20 ) | とらっくばっく ( 2 )


ノノパパの野望
[ ノノパパ ] / 2005/04/02 12:02:38

 ノノが幼稚園に入った頃からノノママは、自閉症の成人が暮らす施設や作業所などの見学を積極的に行った。もちろんノノパパも誘われたが、正直言ってあまり気が進まなかった。私の中では、まだノノが良くなるんじゃないかとゆう思いが払拭できずにいたからかもしれない。ノノママは、私より遥かに現実を直視し将来を見据えていたのだろう。

 自閉症の成人が暮らす施設や作業所を見るのは、私はとても複雑な気持ちだった。施設の人も暮らす人達もみな最善を尽くしているのはわかったが、やはり動揺無くして現実を直視することは出来なかった。これ以上ここで具体的な私観を書くことは出来ないが、機会があれば是非訪問してその目で見てほしい。

 やはり、社会の意識改革や制度改革もとても大切なことだが、現実としてこの子がどう生きて行けるかをまず考え、道筋をつけてやらなければ、死ねないと思った。

 何にせよ、一番大切なのは、身辺自立だ。これが出来るのと出来ないのでは暮らし方に大きな違いが出てくる。これが大きな学習目標だ。誤解の無いように補足しておくが、自閉症と言っても身辺自立など簡単に出来てしまう子もいればそうでない子もいる。自閉症は多様だ。ノノは、生活の多くで介助が必要だ。


 ノノママが精神科に入院していた頃、同じ病棟に二十歳くらいの自閉症の女の子が入院していた。彼女は、学校を卒業して施設に入ってから、精神疾患になり、今は病院に入院している。自閉症の子でも大きくなっていろいろなストレスなどからうつ病などになる人もいるそうだ。そうした子は、障害者施設でも受け入れてもらうのは難しく、病院に入院させておくのも問題が多い。
 彼女は、私が病棟のホールのベンチに座っているといつも脇にちょこんと座ってにこにこしていた。しかし、日によっては、彼女の病室から叫び声が聞こえてきた。彼女は、ベッドに拘束されていた。それが、彼女の生活だ。


 ノノの将来について混迷を深めていた頃、私はサラリーマンをしていた。このまま定年まで働き続ければ、ある程度のお金をノノに残してやれるだろう。お金は生活する上ではとても大切なことは変えがたい事実だ。しかし、お金を残せば、より良い施設や作業所に行けるのだろうか?ノノの生活をサポートしてくれる人にめぐり会えるのだろうか?そもそも私がいなくなった後、ノノが幸せに暮らす環境を手にすることが出来るのか?その時だ、私の中にある野望が生まれたのは。

 私が創ろう。社会福祉法人でもNPOでも個人運営の作業所でもいい。ノノと幾人かの人たちが暮らせる場を創ろう。どうすればいい?このまま仕事に明け暮れていてはとても無理だ。かといって資金も必要だ。私一人ではできない。人脈と信用が必要だ。
 とにかく会社で仕事をしていては何も出来ない。自立しよう。ノノを自立させるのだからまず私が自立しよう。そんなこと上手くいくとは思えない。厳しい選択だろう。例え破産しても、ノノのためにできる限りのことはやってみよう。そう思った。(もちろんノノママのことや転勤の事もあったのだが)
 ノノに関わる時間や、資金、信用、人脈、経営知識。それらを残された人生を全て使ってノノ達の生活の場を地域と共に創ろう。

 まず、自分ができることで足場を作ろう。私は、地元にコンピュータ関連の小さな会社を興した。店舗では、パソコンの教室やトラブルの対応などができ、地域貢献が少しでもできるように。ソフト開発事業では、地元の会社のコンピュータ活用をサポートし人脈を広げる事ができれば。
 今、3期目に入って何とかつぶれずに続いている。地元のNHKの番組出演の反響もあって店舗にも近所の人が遊びに来てくれるようになった。自閉症サポートの先生にも賛同、協力してくれる人も。

 まだまだ、目標は遠く、登り始めたばかりだ。途中で挫折することもあるかもしれない。でも、決して後悔だけはしない。出来得る事を精一杯やって死にたい。

 ノノの笑顔がいつまでもつづくように。

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 コメント
障害児の片親って・・・。 ( 宵待草)
2012/06/17 20:16:22
 貴方様が、引き取られて良かったと思います。
女片親は、様々な場面で バカ にされるので
子供を護ってやれません・・・・。
子供がとても不憫です。

死にたい時って、万策尽きて コレで楽になれるって

そんな感じで 自分の中で誘惑される感じですよね。
お互い 一生シングルだろうけれど頑張りましょう。
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